京都検定講習会 特別プログラム 【映画上演会】
映画「祇園祭」と京都の映画文化
日時:2009年6月27日 13:00~17:15
会場:京都商工会議所
第一部:トークタイム
1)町衆の熱い想い ~祇園祭の本質に迫る~
2)”日本の映画復興を京都から” ~映画「祇園祭」誕生秘話~
第二部:映画「祇園祭」上映会
講師:岩上 力先生 儀式作法研究会 代表
京都検定講演会講師でおなじみ。
舞台芸術学院を経て、劇団「新国劇」にご入団
儀式作法研究会を設立され、作法コメンテーターとしてご活躍中
主な著書に『京の儀式作法入門』、『京のあたりまえ』、『京のならわし』など
講師:森脇 清隆先生 京都府京都文化博物館 映像・情報室長 主任学芸員
京都文化博物館開館時から、映画資料の収集、保存、公開に携わられる
かつての京都の豊かな映画遺産を活用した映像文化振興に取り組まれている
「神事これなくても山鉾渡したし」
岩上先生の講習会で、映画「祇園祭」の存在を知ったのは2007年の7月
レンタルビデオを探すも無く・・・数少ない上演会も、日程の都合で参加できないでいました
その映画「祇園祭」、今回やっと観ることができました!
「神事これなくても山鉾渡したし」
幕府の圧力で祇園会の神事は中止となっても、山鉾はなんとしても巡行させる
町衆の祇園祭復興にかける熱い想いがこの言葉にこめられています
※ 岩上先生の講演会のレポートはこちらにあります
◆トークタイム
1) 町衆たちの熱い想い ~祇園祭の本質に迫る~
平安時代に始まった祇園祭(祇園御霊会と呼ばれていた)
当時の国の数、66ヶ国にちなみ、66本の鉾を立て、八坂神社から神泉苑まで出向き
疫病退散を願った
祇園会は、室町時代に入り、応仁の乱で中断されることとなる
30数年の中断を経て、
「神事これなくても山鉾渡したし」と町衆の力により、祭は復興されることとなる
では、室町時代はどんな時代だったか?
金閣、銀閣が造られ
書院造→たたみ→お花、お茶→作法などが生まれる
→今の日本のもとになる しくみがうまれた時代
その「室町時代」の描かれ方も、映画の見所のひとつ
(岩上先生談)
2) ”日本の映画復興を京都から” ~映画「祇園祭」誕生秘話~
日本映画復興協会(代表、中村錦之助)で制作された映画は、この1本だけ
(日本映画復興協会に関して、また、なぜこの1本だけなのかについては、
聞き逃したか、説明が省略されたか・・・)
京都は日本映画発祥の地
1897年 稲畑勝太郎が試写
↓
その後、はじめての映画スターが誕生する
歌舞伎から出た尾上松の助。京都を舞台とする映画。
この頃、映画の製作数は 京都:東京=1:1
映画は 文化、芸術であるとともに、京都にとっては重要な産業であった
↓
検閲が厳しくなり、現代劇での表現は大きく規制されるが、時代劇では許された
生活者の不満や想いを、時代劇が吸い上げるようになる
【映画のピーク】
1958年 映画鑑賞人口がピークに
1960年 映画製作本数 600本、映画館 700軒でピークに
この映画製作されたころは、映画鑑賞人口が最盛期の約3割まで落ち込み、
京都の映画界も活気を失った時期。
”日本の映画復興を京都から”の掛け声のもと、映画の完成をみることに
【祇園祭の制作秘話】
映画のパンフレットによると、製作準備は 1967.7~となっているが、
1950年 紙芝居を見て映画にと企画されたようです
映画監督 伊藤大輔は、リアリティにより時代劇の認識を変えた監督
その伊藤大輔が企画し、映画会社に持ち込むが、なかなか採用されなかった
理由は山鉾巡行のシーンに、膨大な制作費がかかるため
やがて主演となる中村錦之助が、東映を出て自分の映画を作るとき、この映画を選ぶことになる
1968年は 京都府政100年記念の年で、京都府も援助した
クランクインまでは監督は伊藤大輔だったが、脚本がイメージに合わず(ロマンス要素が多い)
弟子の山内鉄也が引き継ぐ
当時のパンフレットには、「企画 伊藤大輔」、「監督 山内鉄也」 となっている
【セットなどの見所】
菊水鉾、放下鉾は実物。長刀鉾はレプリカ。
これは、長刀鉾に矢を射るシーンがあり、神の宿った鉾に弓を向けることができないため
巡行のシーンのロケは、新丸太町通りが舗装される前に行われた
室町末期の四条通りを1キロにわたり再現
四条通りの東にある八坂神社は、新丸太町通りの西の端に作られた
(森脇先生談)
◇映画「祇園祭」上映
上映時間:約3時間
主演の中村錦之助はじめ、
三船敏郎、岩下志麻、田村高廣、高倉健、北大路欣也、田中邦衛、美空ひばり・・・超豪華キャスト
40年前の姿を探すのも楽しい
貴重な映画が観れて、とてもいい経験でした
※ 映画に出演予定だった岩上先生より、この映画の公開当時のパンフレットが参考資料として
いただけました
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